「歴史の終わり」と世紀末の世界【書評】

1992年から小学館の雑誌「SAPIO」紙上で、浅田彰を聞き手としてフランシス・フクヤマ柄谷行人等と行われた議論を編集した書物

フランシス・フクヤマが、89年にナショナルインタレストで発表した冷戦以後の「歴史の終わり」としての自由主義=資本主義について、フクヤマは対等願望よりも、優等願望が優先されるとして、民主主義社会は危機的な状況にあるという。

「第三項」に敵対することで、自らの正当性を確保していたこれまでの社会は、未知の「第三項」としてイスラム世界を見出したとする柄谷の考えは、ナショナリズム原理主義を他者とすることで、最も暴力的なナショナリズムを生み出すジジェクの考えを、フクヤマの終わった歴史に還元してしまうのではないだろうか?

しかし2017年現在、イスラム原理主義内部の対立はシリア紛争として、700万人の難民を発生させている。

またこの本の中で、ボードリヤールシミュラークルと現実がイリュージョンになり、イリュージョンの中ではどちらの側にいるかわからないと言っているが、ネットというシミュラークルタンザニアの女性、日本人女性の30倍のエネルギーを料理に費やしている、にオンライン上で水を供給している「事実」は、カフカの神話的なポテンシャルやイリュージョンが小説ではなく現実の経済関係になっていることを表す。

この本の中で最も興味深いのは、柄谷行人が冷戦以前に冷戦以後の話をしていた事実を忘れてしまったという話である。

89年以前のデジャヴを現実のものとして受け止めるためには、それ以前の歴史を忘れるしかない。

ここで問題なのは、歴史がなぜ繰り返されるのかということと、繰り返しが分かっていてなぜ回避できないのかということだろう。

歴史が繰り返されるのはそれぞれ時代で歴史が提示する問題に有効な回答が得られなかったからであり、歴史の繰り返しを回避できないのは、歴史が提示し続ける問題に依然として応えようとしているからだと思う。